日本のポスト・シュルレアリスム序説㈠

石川敬大

    ― 瀧口修造試論 T ―



戦後における日本のシュルレアリスムが、現代へとひき継がれる詩史において、継続的に論議され問題視されるそのことよりも、むしろ広義の意味において、美術界の方によりレゾンデートルを保っていたかに見えるのは、美術評論家でもあった瀧口修造、デザイナー・イラストレーター・写真家と多芸だった北園克衛、映画評論家の「元老的存在」としての飯島正など、詩のカテゴリーだけに安住できず他分野へも積極的に越境していった、かれらの存在とも密接に連携していたのだと思う。当初ヨーロッパで勃興した自由への解放を理念とした芸術運動が、詩人であるアンドレ・ブルトン、アラゴン、エリュアール、スーポーらによって始められ、その運動も、カテゴリーとしての詩に限定されたものではなく、絵画やオブジェ、写真、音楽、演劇ほか、芸術全般にわたっていたことと、いったんは関わりをもちながら短期間で運動から離脱していった者が少なからずあったことなど、周辺を巻き込んだシュルレアリスム運動の課題は多岐にわたって広範囲であるため、詩の言語表出に限定しなければ、わたしはなにも語れそうにないが、反面そうであるからこそ、シュルレアリスム詩の限界と不幸の種はその創立時から胚胎していたのだとも言うことができる。


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本稿では、シュルレアリスム詩の書き手として双璧であった西脇順三郎(執筆当時、わたしはそう認識していた)と瀧口修造のうち、後者を取りあげてみたい。特に瀧口の、オートマティスムの技法とともに切り開いた、もう一方の技法である夢の記述の、その可能性と限界とを考察したいのだが、そのことを語る前に、このオートマティスムの技法とはどんなものだったのかをみてみたい。手元に『瀧口修造の詩的実験1927〜1937』があるので(ちなみにシュルレアリスム宣言は1924年)、任意にページをめくって詩篇『TEXTES』から引用してみる。冒頭部はこのように始まる。



死の孤島の上を雪の雲雀が飛ぶ 波打際の幻はぼくに熟した果実を 賦与する美神の反響である 波は孤独の時間に夢を製造してぼくを 誘惑する 無経験の女王は夢の花を吹きあげて舞う 真紅の足蹠は 漆黒の天に附着しつつ舞う 夢の花粉がぼくの睫毛にこぼれるとき 瞬時の歌声が聞こえる 杖の指さした彼方のはこべが歌えと告げる 三つの星は二つの眼であった(以下、略)


西脇流のレトリックの残影や夢の記述のフラグメントが、言葉それ自体として鏤められ、果てしなくつづく長編詩である。だが、著書のタイトルからもわかるように、詩集として纏められたものではなく、〈詩的実験〉とされているところに、作者のある思いが感じられる。作品別の「発表書誌目」が「添え書き」として別刷りで挿しこまれており、たいへん興味深い事柄が記されていて、当時の瀧口の交友関係や、時代背景が彷彿と表出されており、一級品の資料ともなっているように思う。それは、「詩集という型通りのものを刊行したいという強い欲求がついに湧かなかった」ものの、発表から三、四十年を経て一九六七年にようやく処女詩集に似た「遺稿集のようなもの」として世に出されたこと、「夢の記録」の試みが一九二八、九年ごろに「爆発的に」書かれたものの、戦争を挟んで全て失われたことを口惜しがって、本書は「ほんのひとかけらの実験にすぎない」と記していることなどを注目すべきだろう。冒頭から数篇の初出誌『山繭』(中原中也、小林秀雄、堀辰雄、河上徹太郎、武田麟太郎など参加)についての記述では、富永太郎の死の直後、永井龍男の勧めで参加したことも書き記されている。師であった西脇については、「みずから忠実な弟子と名乗るには、私はあまりにも異なった外道を歩きだしてしまったよう」だと、尊敬の念をこめながらも、矜持を滲ませて回顧している。この『山繭』に六篇、西脇グループの超現実主義のアンソロジー『馥郁タル火夫ヨ』に二篇、後述することになる『薔薇・魔術・学説』と先の『馥郁タル火夫ヨ』のグループとが合流した『衣裳の太陽』に五篇、春山行夫の『詩と詩論』に五篇が発表されている。わたしは、瀧口の夢の記述(じしんは夢の記録と呼んでいた)を論じたいのだが、シュルレアリスムとはなんだったのか、日本における運動は、どのようであったのかといったことなどを押さえることもなく書き進めることは困難であるので、まずそのことに言及したい。


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元来シュルレアリスムとは、理想や自由を求めて生み出された新しい生き方のことであり、自由な発想を重視し、束縛を取り除こうとする運動で、「知的かつ道徳的な観点から見て、もっとも全般的でもっとも深刻な一種の意識の危機をまきおこすこと」(ブルトン)であり、「美学上の方法、また一種の倫理感として定義されうるもの」(パトリック・クルドベルグ)とされている。手法的に言えば、オートマティスム、コラージュ、レディ・メイド、フロッタージュ(版画の技法で擦る意味)、シュルレアリスティック、夢、革命、ダライ・ラマ(東洋宗教への関心)があったとされている。特に、「強調しなくてはならないのは、(略)一個の革命運動であり、その後も革命運動にとどまっていた」(パトリック・ワルドベルグ)という点で、記憶しておきたい運動体としての側面であるだろう。

戦後の日本におけるシュルレアリストを同一地平に並置したうえ、詩法の変遷をまったく度外視して論じてしまうのはもちろん問題があると思うが、そのことに目を瞑ってあえてその名を列記してみるならば、戦中を跨いで第一線にとどまり続けた西脇順三郎、瀧口修造、北園克衛のほか、戦後の焼け跡に颯爽と登場してきた飯島耕一、シュルレアリスム研究で定評のあった鶴岡善久、あとは藤富保男、柴田基孝(侃侃四号に試論を掲載)の名を挙げればいよいよ手詰まりになってしまう。わたしの恣意的感覚でさらに言わせてもらうならば、瀧口修造の夢記述の後継者としての天沢退二郎、有能なエディターであり自由人としての吉岡実、また入沢康夫の実験的詩法や、有能な書き手で西脇の影響を多分に受けた城戸朱理、奔放自在な詩を書く野村喜和夫などの名も挙げてみたい衝動も湧くが、彼らをしてシュルレアリストと呼ぶのは当然無理がある。なぜなら彼らは、現代思想から哲学・宗教・文学理論にわたるまで、幅広い視野を持つ戦後イデオロギー崩壊後の、グローバルでボーダレスな世界の住人であるからだ。けれども城戸と野村は、昭和十年に創刊された伝統ある『歴程』の同人でもある。戦後詩の二大勢力であった荒地、列島、さらに未来派、プロレタリア、民衆詩派などの詩誌が、ヨーロッパのダダイズムやシュルレアリスム、サンボリズムほどには潮流や運動体としての結束力や力強さを保持することができなかったのは、日本の場当たり的な文化風土の現代における露わな反映であったのかもしれない。シュールと言えば、「斬新さ」「突拍子もない表現」程度の意味で使用されて、シュルレアリスム宣言の大風呂敷的なとりとめのなさは「新しい生き方」の模索といった精神性に光を当てたものとして、現代人にはもはや浸透し消化され尽くしてしまっているのではないかとさえ思われる。そうして技法だけが、あらゆる芸術の分野で、アバンギャルドとして生き残っているのではないだろうか。そういった意味からシュルレアリスムは、赤瀬川原平やつげ義春といった斬新でラディカルな漫画家たちにも強い影響を与えたといわれているが、日本のマンガが世界で読者を獲得した理由も、ヨーロッパ発のシュルレアリスム精神と根を一つにする精神性のラディカルさにおいて、密接に繋がっているということが言えるのかもしれない。


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日本におけるシュルレアリスム詩の成り立ちをもう少し仔細に見てみると、昭和二年に北園克衛、上田敏雄、冨士原清一らが、超現実主義詩誌『薔薇・魔術・学説』を、超現実主義(シュルレアリスム)の旗を初めて掲げたグループとして創刊した。アンドレ・ブルトンの「超現実主義宣言」が北川冬彦訳で掲載された『詩と詩論』の第一冊(昭和三年九月刊行)の同人は、安西冬衛、飯島正、上田敏雄、神原泰、北川冬彦、近藤東、滝口武士、竹中郁、外山卯三郎(美学者)、春山行夫、三好達治の十二人だったが、一年後にはさらに西脇順三郎、瀧口修造、佐藤朔、横光利一、堀辰雄、吉田一穂、佐藤一英、笹沢美明、大野俊一(独文)、渡辺一夫(仏文)が加わっている。後には作家や学者ともなった多数の同人たちのなかで、短期間であってもシュルレアリスト(モダニストという呼称で括った方がよいのかもしれないのだが)でありえたのは、編集責任者であった春山行夫のほか、同人二十二名中半数にも満たない。しかも数年後には春山の編集方針に現実遊離と不満を抱いた北川冬彦、三好達治、神原泰が脱退、北園克衛も短期間でシュルレアリスム詩とは距離を置き、上田敏雄はそれを否定するようになって、「詩の本質はやっぱり叙情詩だ」とひとに語ったりしている。結局、日本におけるシュルレアリスム運動は、自由志向の精神性といくつかの技法を残して軍国主義的な右傾化の波に呑み込まれるようにして終息へ向かうことになる。だが成果がなかったわけではない。『詩と詩論』に掲載した春山の『無詩学時代の批評的決算』、エスプリ・ヌウボォ叢書として刊行された西脇順三郎『超現実主義詩論』、詩集では安西冬衛『軍艦茉莉』、北園克衛『白のアルバム』、上田敏雄『仮説の運動』、北川冬彦『戦争』、春山行夫『植物の断面』ほか、ボードレール『巴里の憂鬱』(三好達治訳)、『コクトオ抄』(堀辰雄訳)といった翻訳物まで春山の手で出版されている。ちなみに、わたしが瀧口修造を除いてもっともシュルレアリストとして高く買っている安西冬衛の詩集『軍艦茉莉』から、『春』(同題に、例の「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。」がある)と、『犬』という短詩を引用してみよう。



 鰊が地下鉄道をくぐつて食卓に運ばれてくる。

                  『春』全行



 彼女は西蔵の公主を夢にみた


 寝床は花のやうによごれてゐた

                  『犬』全行


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一方、本家筋のヨーロッパでも、シュルレアリスムの創始者ブルトンの態度、行動、やり方に反発する者が多く、エルンストやダリなどは除名、アラゴン、エリュアール、スーポーといったシュルレアリスム創始時のメンバーのほとんどもブルトンから離れていった。このように、ヨーロッパや日本を問わずシュルレアリスムの内実は、一潮流や運動体として決して堅牢だったわけではなく、むしろ脆弱でさえあったと言える。後の世代の詩人や同時代人からいくつかの証言を聞くことができる。たとえば上田敏雄は「シュール理論の犠牲者、殉教者」(鮎川信夫)と評され、春山は「ジャーナリスティックな才能」はあったものの、詩作品に関しては「質的には抒情」詩であったと大岡信は、鮎川や吉岡隆明との鼎談のなかで発言している。北川冬彦の処女詩集『三半規管喪失』の『瞰下景』や『街裏』などを読んでみると、たしかに一見シュルレアリスム詩的外見をもっている。こんなぐあいだ。



 ビルディングのてつぺんから見下すと

 電車・自動車・人間がうごめいてゐる


 

 眼玉が地べたにひつつきさうだ

               『瞰下景』全行



 両側の家がもくもく動きよつて

 街をおし潰してしまつた


 白つちやけた屋根の上で

 太陽がげらげら笑ひこけてゐる

                『街裏』全行



だが彼は、このような「短詩運動」から「新散文詩運動」へと休む間もなくシフトしていったし、北園克衛『白のアルバム』の序で春山は、「意味のない詩を書くことによって、ポエジィの純粋は実験される。詩に意味を見ると、それは詩に文学のみを見ることにすぎない」と書き記している。この文章に続けて、村野四郎が同じ北園克衛の詩作品の解説文として書いた次の文章を置いてみるならば、この言葉はよりはっきりと了解できるかもしれない、こんな文章だ。「感覚世界にのみ詩の純粋を見ようとした(略)わが国の初期モダニズムでは、『意味の断絶』が詩の主題であり、詩の合言葉でもあった」と。つまり、相反する二つのものの連結によって形成される美は、調和されることなく不調和であればあるほど光りを増す(安西冬衛はこの不調和のことを『稚拙感』と呼んでいた)と考えたブルトンのシュルレアリスムの技術論(『夢』と『現実』の二つが溶解する神秘を美であるとも述べている)を、反文学という意味に矮小化して理解したのが、日本のシュルレアリスムを牽引した『詩と詩論』編集者であった春山行夫が考えるシュルレアリスム理論であった。本来「新しい生き方の」「自由な発想を重視し、束縛を取り除こうとする運動」であったはずなのだが、逆に拘束する方に変容していった。そのへんの事情を大岡信が適切に語っている。吉田一穂や瀧口修造などの詩を転載するなど、初期の『詩と詩論』は編集に幅があったことを前段に述べた後で、「形式主義的な理解によるシュルレアリスムで、言葉の機能論みたいなことばっかり考えて、意味論を飛ばしちゃった。西脇さんだけが知らん顔して意味論をやってた」と。このように『詩と詩論』の中心理論は、意味に敵対して形式と機能に集約されていく。上田敏雄がじしんの詩集『仮説の運動』を、自分の著書目録から除外するよう妻に遺言していたのも、このシュルレアリスムの形式主義(フォルマリスム)を反省したせいだとも言われている。


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西脇順三郎は『日本の詩歌25 北川冬彦、安西冬衛、北園克衛、春山行夫、竹中郁』の解説として書かれた『詩人の肖像』のなかで、意外にもシュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンに反発する文章を残している。「詩作の内面的構成は夢(非現実)と現実(すなわち相反する二つのもの)の融合でなければならない。ブルトンはこの融合した一つの存在のことを『超現実性』という。私はこれを詩の本質という」。この詩の「本質」は「形態」の意味であり、詩の「本体というのは『未知のもの』であると思う。それは永遠という絶対なものに連結されている一つの存在である」と記している。「詩は昔から超自然であって超現実である」と。  慶応大学時代の西脇教授の教え子たちであった瀧口修造、上田敏雄、佐藤朔らが、こういう反ブルトン的考えに至る、シュルレアリストであった恩師の西脇から、どんな教えを受けていたのかわたしの興味は尽きないが、この論考ではそこまで追究することは考えておらず、また西脇研究そのものは城戸朱理にまかせるべきで、わたしの任ではない。

やっとこれで準備が整い、わたしは瀧口修造の夢記述に入っていくことができる。シュルレアリスムの技法の一つであり、瀧口が積極的に手掛けた夢の記述集としても読める『寸秒夢』というテキストと、彼の後継者である天沢退二郎の詩篇を次にとりあげてみたい。